2016年御翼7月号その3

佐藤陽二牧師が主筆していた「えくれしあ」1966年12月号から、初めて渡米したときの記事である。

              

米 国 通 信

                                          

 ロスアンゼルスに、六月二日に来てみて驚きました。私にビジネス・ビザ(米国への入国許可の種類・これは六ケ月が限度)で、とりあえず来るようにと言って来たG牧師とは、連絡がとれないのです。ここで私は、東京の家内宛に、こちらへ来てみたら事情がちがっているので、米国に来るなどとは、考えるな、子供へもそういいきかせよと、手紙を書きました。今後の見通しが、全くつかなくなったからです。しかし、G牧師と連絡がとれないということは、神様がこの米国においても独立でやれと言われているのだと、私は受けとりました。信仰によってそのように解釈したのです。神学校の卒業成績証明書と左近先生の推薦状、私は、この二つの証書を足場にして、神様の導きに、今後の歩みをかけ、聖書を読み、そして祈ったのです。その時のカリフォルニアの夕陽の沈むさまは、生涯忘れることのできないものとなりました。そして私は、日本を離れるとき、酒枝義旗先生が、「神様の導きによって誰と出会うかが楽しみだ。神の導きによる出会いを信じて歩むように」と言われたことを思い起しました。よし、神様の備え給う人に出会うに違いないと思い定めたのです。主にある皆々様の、背後の祈りを強く感じて立ち上りました。
 コビナの神学校の様子を聞くために、この神学校の家族寮にいる日本人の細見牧師をたずねました。細見牧師は、学生として学びながら、サンフェルナンド・ホーリネス教会の、一世部の牧師もしています。その夜、三つのことを知りました。第一、コビナの神学校は入学の締切りがまだ終っていないこと。第二、私の実家の近所から渡米された宍戸もと様は、このサンフェルナンド教会の会員であること。第三、この神学校の、旧約学担当の、ローリン教授の聖書註解書を読んだところ、この教授の信仰と学問とに興味をもったこと。そこで私は、翌朝、ローリン教授へ面会を求めました。約束の午後二時半に、左近教授から頂いて来た二通の書類をもとに、ひとりで面接をし、授業料だけの奨学金を受けられることになり、入学許可を得たのです。
 学校がきまれば、生活費の問題です。ここまで導いて下さった神様は、ここで見捨てられるわけがない、というのが、その時の、私の確信でした。宿もきまっていませんし、運転免許証もなし、自動車はもちろん、この時はまだ手に入りませんでしたので、神学校の近くに仕事を探し、寮に泊る計画をしました。しかし私には、今度は神様がどんな風に道を開いて下さるのだろうか、という一種の楽しみがありました。この神様の導きと神様の手のうちを実験して、それを人々に伝えることが、牧師の役目の一つであると信じている私には、本当に、神様の次の展開の道を見るのが楽しみだったのです。神学校から徒歩で二十五分程のところにあるホテルへ行き、私は今仕事を探しているが、と交渉しましたところ、ボス(次長でした)に会えとフロントの係が親切に案内してくれました。ところがこのボスは、東京の水道橋の講道館で、三ケ月修業したこともあるという柔道三段です。「俺も黒帯だ」と私が言いましたところ(私は、中学、海軍と剣道が専門でしたが、牧師になり、結婚してから神楽坂に住みましたので、その頃、講道館に入門し、ようやく黒帯になったのでした。技の中では、内股が得意です)すっかり信用してくれました。そして、きのう他の学生をやとったのだが、それを昼にまわすから、君は、割の良い夜間に働いたらどうか、その方が、家族を呼び寄せるには早道だろうから、と言って呉れるのです。
 翌日からナイト・ポーター(夜間のお客案内係りを主とする名称)として働くことになりました。ホテルですから、毎食三ドル以下の食事は、無料で食べてよいともいうのです。今まで、幸か不幸か、自炊をしたことのない私には、これはおお助かりでした。泊まる所は、神学校の寮で、食費はただです。計算してみましたところ、家内と小学生の三人の子供たちの米国までの旅賢は、八月末日までに、大体送金できる見とおしがつきましたので、早速、家内宛に、九月二日のブラジル丸へ乗船準備をするようにと、手紙を出したのです。もちろん、これは冒険でした。まだ、私のスポンサー(米国の身元引受人)もきまっていなかったからです。しかし、すべてがはっきりしてからでは、事をなす場合には、常におそ過ぎます。現状の分析と、事柄の進み方から見た将来の見とおしと、神への信頼からの決断、この三つが、信仰生活の実際問題において大切なことです。

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